どこへ向かうにしても、旅をするときは多少ともその場所の歴史を眺めてみると、
目の前の景色が違う印象を持つことがある。
普段もガイドブックやインターネットでざっとそのあたりの情報を見て、訪れる特定の場所、例えば教会やモスク、公園の歴史を点として追ってから出発するのだけれど、アンダルシアに向かう前は必要に迫られたこともあり、線としてこの地域の歴史を追ってから出発することになった。
スペイン、特にアンダルシアといえば、イスラム帝国時代がその土地を象徴する大きなあり、実際にその地に降り立ってみても、今も至る所に残るそのどこか他のヨーロッパ諸国とは異なるエキゾチックな趣が確かにその地が独自の文化を育んできた時代を通ってきて現在に至ったことを感じさせられる重要な歴史の一部分であると思う。
日本の世界史の中ではあまり大きく扱われることの少ない、イスラム支配以前のアンダルシア地方の史実を追ってみた一部分をここに簡単に記しておく。
歴史をずっと遡れば、アンダルシアにはアフリカから渡ってきたばかりの現生人類の痕跡をみることができる。フランスのクロマニヨン人と同様に、彼らは狩猟をしながら洞窟で暮らしていたと考えられている。例えばNerja Caves(西:Cuevas de Nerja)では、紀元前2万5千年頃から居住していたと考えられている人骨が発掘されている(http://www.nerjarob.com/nerjacaves/about-the-caves/)。
『アンダルーシア風土記(永川玲二著)』によれば、アンダルシア地方はイスラム帝国になる遥か昔のローマ史以前から、その古生代から完新世までにかけて形成されていった過程で生まれた豊富な鉱脈資源と地中海に面する地の利からフェニキア人たちとの交易の拠点になっていた場所だという。
彼らは金属資源と引き換えに、冶金や農耕、さらにはアルファベットをアンダルシアの地にもたらした。
ローマ統治時代(B.C. 2~5世紀)はポエニ戦争後にスキピオが療養地として整備し、後の植民地となるイタリカ周辺が首都から離れた場所に位置しながらもローマと深い結びつきを持ち、暴君としても有名なローマ帝国5代皇帝のネロの家庭教師を務めた哲学者のセネカのような知識人を多く輩出した。このイタリカは多くの文化の発信地となることで地元民を"ローマ化(Romanization)"していく上でも重要な役割を果たす。
後の皇帝トラヤヌスはイタリア以外から選出された初めての君主となり、同じくイタリカ出身と考えられている続く皇帝のハドリアヌスとともに後々五賢帝の一人に数えられている。彼らの時代にイタリカの文化は最高潮を迎えることとなる。
やがて、ローマ帝国の衰退、ユーラシア大陸の広範囲にわたる諸民族大移動時代を経て(この時代にイタリア文化の多くが破壊や略奪により失われた)、ムーア人によるイスラム帝国時代の時代がやってくるのが8世紀のこと。
当時イベリア半島の大部分はゲルマン人の一派による西ゴート王国となっていたが、支配階級の内紛が頻発していた。
ムーア人たちはこの機に乗じて対立派の貴族からの要請を受けての支援軍としての体で、711年にジブラルタル海峡を経てイベリア半島に上陸、史実上は以降破竹の勢いでイベリア半島のほぼ全土をわずか10年弱で制圧していくことになる。
7世紀半ばまでにはイベリア半島のほぼ全部をムーア人によるイスラム支配化として塗りつぶすことになるわけではあるが、宗教や民族の入り混じるこの地を制圧していく代償はそれ相当なものがあったのだろうし、イスラム帝国内でも支配階級者による内紛はあったということだから、たとえ一時的に制圧したとしてもそれを維持していく作業には、ローマ帝国が植民地を通じてローマ化させたのとは比にならいほどの急進的で莫大な力が必要だったのではないだろうか。
それからイベリア半島の一部ではレコンキスタで再び奪還されるまで約8世紀にわたり、ムスリムの支配による時代が続く。
彼らはローマ時代からの文化を引き継ぎ、進展させ、一方では交易によって果ては極東からの文明も取り入れてその文化を発展させていく。
世界って言葉は大げさだけれど、今日も私はこの世界で生きていかなければならない。 学んで、働いて、旅をして、誰かと出会って、泣いて、笑って… 現代はお金と時間と動ける体さえあれば文明の利器を使ってあっという間に世界を渡り歩けるけれど。 ほんの少し立ち止まって、その空間から少し深く何かを探しだして、書き留めておきたい。
1.6.19
25.12.16
神話の世界*エフェソス・トロイ
自分の中での歴史の時間軸というのは誰にでもなんとなくあるものではないかなと思う。
私の場合は、ヨーロッパのそれをつい最近まで割と遠いところに位置付けていたので、ベルリンのペルガモン博物館で初めてその壮大な遺跡を間近で見たのは、その時間軸が大きく揺さぶられる衝撃的な機会だった。
それらと比べると、それまでの数年間で初めて日本を出てヨーロッパでとても昔のものと感じてきた建築物たちがいかに新しいものと感じることか。そして、そのような果てしない時代を超えて目の前にあるそれらの彫刻に、遠い時代に生きた人々たちを想像する。
トルコへの旅を考えた大きな理由の一つがその時の経験だった。
広大な国土のためにそのすべてを回ることはできない中で選んだ二つの遺跡。
エフェソスとトロイ。
トロイ遺跡はドイツ人考古学者シュリーマンが、、ギリシャ神話の『トロイの木馬』を歴史の事実として“こちらの世界と繋ぐこと”を夢見て発掘にこぎつけた、なんとも研究者魂を体現したような誕生秘話のある遺跡である。
周りには全く何もない野原の中の丘にある規模としては小さな発掘地。
それでもこの遺跡が持つ意味は、その神話や発掘までのストーリーを知ってしまうととても大きく感じる。
エフェソス遺跡はトロイと比べるとかなり大規模で一つの街である。
遺跡巡りに慣れていない私にとっては、道端にごろごろとそのままに転がっているそれらの一部も印象的だった。
野外博物館というよりは、あまりにも現実感が無くてむしろテーマパークのように思えてしまう。
それでも青い空と白い遺跡の数々。
やはり遠い異国の箱の中で見るより、そこにあるがままを見るということは、遥かに感ずるものがあった。
トルコでは観光地には猫である。
遺跡と猫。少し奇妙な組み合わせではあるが、穏やかな今と古代がここで平和に繋がっていることのひとつの象徴のような光景だ。
今この瞬間、人類の歴史を多く育んできた近隣の長い歴史を持つ地域では、今の平穏と神話の足跡が同じように破壊され続けている。
そうやって人の力や、あるいはそうでなくても自然の力で過去の遺物は壊されていき、その後の時代へと繋がっていかないものの方がこの地球の上にははるかにたくさんあるのだろう。
目に見えるもの、形あるものはいつか必ず終わりを迎える。
大切なものは心に刻み記録していくこと。
そういう風に生きていきたいと思った。
私の場合は、ヨーロッパのそれをつい最近まで割と遠いところに位置付けていたので、ベルリンのペルガモン博物館で初めてその壮大な遺跡を間近で見たのは、その時間軸が大きく揺さぶられる衝撃的な機会だった。
それらと比べると、それまでの数年間で初めて日本を出てヨーロッパでとても昔のものと感じてきた建築物たちがいかに新しいものと感じることか。そして、そのような果てしない時代を超えて目の前にあるそれらの彫刻に、遠い時代に生きた人々たちを想像する。
トルコへの旅を考えた大きな理由の一つがその時の経験だった。
広大な国土のためにそのすべてを回ることはできない中で選んだ二つの遺跡。
エフェソスとトロイ。
トロイ遺跡はドイツ人考古学者シュリーマンが、、ギリシャ神話の『トロイの木馬』を歴史の事実として“こちらの世界と繋ぐこと”を夢見て発掘にこぎつけた、なんとも研究者魂を体現したような誕生秘話のある遺跡である。
周りには全く何もない野原の中の丘にある規模としては小さな発掘地。
それでもこの遺跡が持つ意味は、その神話や発掘までのストーリーを知ってしまうととても大きく感じる。
エフェソス遺跡はトロイと比べるとかなり大規模で一つの街である。
遺跡巡りに慣れていない私にとっては、道端にごろごろとそのままに転がっているそれらの一部も印象的だった。
野外博物館というよりは、あまりにも現実感が無くてむしろテーマパークのように思えてしまう。
それでも青い空と白い遺跡の数々。
やはり遠い異国の箱の中で見るより、そこにあるがままを見るということは、遥かに感ずるものがあった。
トルコでは観光地には猫である。
遺跡と猫。少し奇妙な組み合わせではあるが、穏やかな今と古代がここで平和に繋がっていることのひとつの象徴のような光景だ。
今この瞬間、人類の歴史を多く育んできた近隣の長い歴史を持つ地域では、今の平穏と神話の足跡が同じように破壊され続けている。
そうやって人の力や、あるいはそうでなくても自然の力で過去の遺物は壊されていき、その後の時代へと繋がっていかないものの方がこの地球の上にははるかにたくさんあるのだろう。
目に見えるもの、形あるものはいつか必ず終わりを迎える。
大切なものは心に刻み記録していくこと。
そういう風に生きていきたいと思った。
15.11.14
過去と未来がある街*ベルリン
何かに惹かれてやってきたドイツ。
だから、絶対にこの目で見て知っておきたかった、首都ベルリンのこと。
そう思い続けてやっと来れたベルリンは、想像していたよりもずっと優しくて、落ち着いた街でした。
季節は秋の真っただ中。
道路には街路樹の落ち葉がたくさん降り積もっていた。
今までヨーロッパを歩いてきた街の中で、日本人が憧れた西洋はパリだったんだと思っていた
けれど、ああドイツにもそんな場所があったんだ、そう思えたのがここ、ベルリン。
森鴎外の舞姫の冒頭を思い出して無性に読みたくなった。
でも、日本と同じように、もしかしたらそれ以上に70年前に一度壊れてしまった街。
「壁」というものが作られ、25年前までその戦争の名残を残していた。
その「壁」は、70年前の戦争の名残と言うよりは、
それ以降の世界史の移り変わり象徴だったのだと思うけど、それでもこの街は分断され、
今は同じ国の住民同士で違う歴史をたどってきた。
私はその戦争を知らない。
私はその時代を知らない。
きっとどんなにその時代のことを調べたって、これっぽっちもそこに暮らしていた
人のことなんてわかるはずはないんだろうけれど。
それでも私は、今その時代に生きていた人たちのいる街で暮らしてる。
13.10.14
魔女伝説*ハルツ山地
「春の終わりに魔女たちの集う山がある。」
2013年10月。
そんな話を聞いて、とても興味を持っていた場所。ハルツ地方、ブロッケン山。
行くことができたのは結局秋になってしまったけれど、おかげで予想外の美しい光景を楽しめた。
ハルツ地方には日本人に知られているあまり大きな観光の街はない。
だが、保存状態の非常に良い木組みづくりの街並みや、東西ドイツ時代の境界にあったために残されている豊かな自然のため、ドイツの人たちには人気の休暇地域である。
人口の多い最寄りはヒルデスハイム(Hildesheim)という街。
私が宿泊したのはヴェルニゲロデ(Wernigerode)。
閑散期に入ったためか、ホステルは8人部屋に2人のみであった。
到着した日は生憎の雨。
そんな中、美味しい夕食を探し求めて間違えて街と反対方向に歩いたのは良い思い出。
次の日まで濡れたズボンを干すことになった。
翌朝は快晴。
目的のハルツ山へ。正直こんなにも紅葉が美しいとは思っていなかった。
それは北海道と似ていて赤は少ない。
黄色と常緑樹の緑と山にかかる霧が怪しく美しい景色を作りだす。
もしかしたら本当に私はどこかの絵本の1ページに迷い込んでしまったのかもしれない。
頂上は生憎の霧だった。
でも、なんだかさらに神秘性が増した気がして、悔しさよりも満足感でいっぱいになった。
電車でのアクセスはやや悪いが、ドイツの美しい街並みを初めて見てみたい人には、
私はローテンブルクよりも断然、Wernigerodeをおすすめする。
街ではアジア人は皆無。
近くのQuedlinburgも木組みのドイツの歴史の奥深さを感じられてまた良い。
自分にとっては初めての場所なのに、日本の飛騨高山にいるようななんだか懐かしい気分にさせられる場所なのだ。
どこにいてもいろんなことを考えさせられる季節だけれど、
鮮やかな紅葉と異国なのになぜか郷愁をさそう景色に心をはげしく揺さぶられる。
秋、深まる。
4.9.14
アドリア海の真珠と呼ばれる街*ドゥブロヴニク
上空からのドゥブロヴニクの眺め
クロアチアで最も有名なリゾート地といえば、ここドゥブロヴニクだろう。
街に足を一歩踏み入れれば、それが間違いのない事実、
そして同時に、今最もホットな場所であることもよくわかる。
ダルマチア地方のクロアチアの飛び地であるドゥブロヴニクは14世紀から16世紀にかけて海洋国家として繁栄を極めた街だ。
城壁でぐるりと囲われた街全体が世界遺産になっているが、
1991年のクロアチア独立の際の内戦によって8割がた街は消失、大部分はその後に作られたものだそう。
以前は歴史が古い割に妙に綺麗な石造りの街並みを見ると、
観光地化のためにするなんて嫌な感じだと思っていたけれど、
最近はかえってその美しさに、これを壊した戦争のもつ広大なエネルギーの恐ろしさや、
石の下に眠るたくさんの人の魂を痛いほど感じるようになった。
そう意味ではいくら美しくても、ただのテーマパークとは違うなと思う。
今も昔も海の色は変わっていないのかな、と思いながら城壁の間から海辺に出ると
9月に入ってもまだ暖かい海で泳ぐ人々の姿をたくさん見つけた。
とても広く見える海だけれど、ヨーロッパの国の間だけに広がる地中海。
今はこんなに穏やかだけれど、この海の下には様々な歴史が眠っているんだろう。
23.8.14
石炭の島*スピッツベルゲン島
スピッツベルゲン島は遥か昔、赤道付近にあったのだそうだ。
それが現在は北極圏へ。
今を生きている私たちにはなかなか想像しがたい事実だけれど、
その証拠は、島名の由来にもなったたくさんの尖った山(独語:Spitz=先端、Bergen=山々)の
チョコレートの層のようになった地層を専門家がよくみるとわかるらしい。
そしてそんな層からはその時代にここに茂っていた、
今となっては一本もこの島には生えていない木本植物の化石が見られる。
化石ハンティングがひとつのツアーになっているくらいだ。
その事実はすなわち、人類にとってのエネルギー、石炭もこの島に眠っているということも意味する。
先人たちがその事実を早く知らないはずがなく…
というよりもこの島の開拓の歴史の主要な部分はそこから始まるといってもいい。
そもそもこの島の首都ロングイェールビン(Longyearbyen)というのも
アメリカ人の炭鉱経営者Longyearからきている。※Byenはノルウェー語で街の意味。
街は炭鉱の経営によって始まり、現在も経済を支える主要な産業は炭鉱であり、
電力も石炭である。
ロングイェールビンから内陸に進んでいって30分ほどの隣町ニビェンとの間には、
地元の子供たちに「夏場のサンタクロースの家」と呼ばれる旧炭坑跡がある。
これが日本だったら記念碑作ってとっとと撤去されていたであろう、古めかしさ満載。
調べてみると、最初に設立されたのは1913年。
第二次世界大戦中にナチスによって爆撃され、1943年から1962年まで燃え続けたのだとか。
こんなところにまで戦争の影響があったことにも驚きだが、
18年も燃え続ける石炭のパワーにさらに驚く。
現在のは新しいもので、閉山となる1968年まで使われていたものだそうだ。
かなり険しい斜面ではあるが(多分45°以上)、登ることも可能で自己責任だが中にも入れる。
廃墟マニアと歴史好きにはたまらない場所ではないだろうか。
そして意外と次から次へと人が訪れる
。
それが現在は北極圏へ。
今を生きている私たちにはなかなか想像しがたい事実だけれど、
その証拠は、島名の由来にもなったたくさんの尖った山(独語:Spitz=先端、Bergen=山々)の
チョコレートの層のようになった地層を専門家がよくみるとわかるらしい。
そしてそんな層からはその時代にここに茂っていた、
今となっては一本もこの島には生えていない木本植物の化石が見られる。
化石ハンティングがひとつのツアーになっているくらいだ。
その事実はすなわち、人類にとってのエネルギー、石炭もこの島に眠っているということも意味する。
先人たちがその事実を早く知らないはずがなく…
というよりもこの島の開拓の歴史の主要な部分はそこから始まるといってもいい。
そもそもこの島の首都ロングイェールビン(Longyearbyen)というのも
アメリカ人の炭鉱経営者Longyearからきている。※Byenはノルウェー語で街の意味。
街は炭鉱の経営によって始まり、現在も経済を支える主要な産業は炭鉱であり、
電力も石炭である。
ロングイェールビンから内陸に進んでいって30分ほどの隣町ニビェンとの間には、
地元の子供たちに「夏場のサンタクロースの家」と呼ばれる旧炭坑跡がある。
これが日本だったら記念碑作ってとっとと撤去されていたであろう、古めかしさ満載。
調べてみると、最初に設立されたのは1913年。
第二次世界大戦中にナチスによって爆撃され、1943年から1962年まで燃え続けたのだとか。
こんなところにまで戦争の影響があったことにも驚きだが、
18年も燃え続ける石炭のパワーにさらに驚く。
現在のは新しいもので、閉山となる1968年まで使われていたものだそうだ。
かなり険しい斜面ではあるが(多分45°以上)、登ることも可能で自己責任だが中にも入れる。
廃墟マニアと歴史好きにはたまらない場所ではないだろうか。
そして意外と次から次へと人が訪れる
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