1.6.19

流れる水と漂う人間と*アンダルシア①

どこへ向かうにしても、旅をするときは多少ともその場所の歴史を眺めてみると、
目の前の景色が違う印象を持つことがある。


普段もガイドブックやインターネットでざっとそのあたりの情報を見て、訪れる特定の場所、例えば教会やモスク、公園の歴史を点として追ってから出発するのだけれど、アンダルシアに向かう前は必要に迫られたこともあり、線としてこの地域の歴史を追ってから出発することになった。

スペイン、特にアンダルシアといえば、イスラム帝国時代がその土地を象徴する大きなあり、実際にその地に降り立ってみても、今も至る所に残るそのどこか他のヨーロッパ諸国とは異なるエキゾチックな趣が確かにその地が独自の文化を育んできた時代を通ってきて現在に至ったことを感じさせられる重要な歴史の一部分であると思う。


日本の世界史の中ではあまり大きく扱われることの少ない、イスラム支配以前のアンダルシア地方の史実を追ってみた一部分をここに簡単に記しておく。

歴史をずっと遡れば、アンダルシアにはアフリカから渡ってきたばかりの現生人類の痕跡をみることができる。フランスのクロマニヨン人と同様に、彼らは狩猟をしながら洞窟で暮らしていたと考えられている。例えばNerja Caves(西:Cuevas de Nerja)では、紀元前2万5千年頃から居住していたと考えられている人骨が発掘されている(http://www.nerjarob.com/nerjacaves/about-the-caves/)。


『アンダルーシア風土記(永川玲二著)』によれば、アンダルシア地方はイスラム帝国になる遥か昔のローマ史以前から、その古生代から完新世までにかけて形成されていった過程で生まれた豊富な鉱脈資源と地中海に面する地の利からフェニキア人たちとの交易の拠点になっていた場所だという。
彼らは金属資源と引き換えに、冶金や農耕、さらにはアルファベットをアンダルシアの地にもたらした。

ローマ統治時代(B.C. 2~5世紀)はポエニ戦争後にスキピオが療養地として整備し、後の植民地となるイタリカ周辺が首都から離れた場所に位置しながらもローマと深い結びつきを持ち、暴君としても有名なローマ帝国5代皇帝のネロの家庭教師を務めた哲学者のセネカのような知識人を多く輩出した。このイタリカは多くの文化の発信地となることで地元民を"ローマ化(Romanization)"していく上でも重要な役割を果たす。

後の皇帝トラヤヌスはイタリア以外から選出された初めての君主となり、同じくイタリカ出身と考えられている続く皇帝のハドリアヌスとともに後々五賢帝の一人に数えられている。彼らの時代にイタリカの文化は最高潮を迎えることとなる。

やがて、ローマ帝国の衰退、ユーラシア大陸の広範囲にわたる諸民族大移動時代を経て(この時代にイタリア文化の多くが破壊や略奪により失われた)、ムーア人によるイスラム帝国時代の時代がやってくるのが8世紀のこと。

当時イベリア半島の大部分はゲルマン人の一派による西ゴート王国となっていたが、支配階級の内紛が頻発していた。
ムーア人たちはこの機に乗じて対立派の貴族からの要請を受けての支援軍としての体で、711年にジブラルタル海峡を経てイベリア半島に上陸、史実上は以降破竹の勢いでイベリア半島のほぼ全土をわずか10年弱で制圧していくことになる。


7世紀半ばまでにはイベリア半島のほぼ全部をムーア人によるイスラム支配化として塗りつぶすことになるわけではあるが、宗教や民族の入り混じるこの地を制圧していく代償はそれ相当なものがあったのだろうし、イスラム帝国内でも支配階級者による内紛はあったということだから、たとえ一時的に制圧したとしてもそれを維持していく作業には、ローマ帝国が植民地を通じてローマ化させたのとは比にならいほどの急進的で莫大な力が必要だったのではないだろうか。

それからイベリア半島の一部ではレコンキスタで再び奪還されるまで約8世紀にわたり、ムスリムの支配による時代が続く。
彼らはローマ時代からの文化を引き継ぎ、進展させ、一方では交易によって果ては極東からの文明も取り入れてその文化を発展させていく。