30.3.20

手の届く広さの世界の季節の移ろいと*閉ざされる街



2019年の年末から世界では疫病が流行して、私たち人間たちは多かれ少なかれ、今までの生活をしばらくの間ある程度変えざるを得なくなった。
 しばらく間、 というのがどれくらいのスパンなのかはおそらくこの地球上の人間の誰も分からない。


私の過ごしていた街でも公共施設が閉まり、飲食店が閉まり、小売店が閉まり、他地域との境界線もついには閉ざされた。
私は自動車も持っていないので、普段の週末休みに越境することなどは滅多にないのだけれど、人間というのは不思議なもので、制限される生活空間を言い渡されると焦燥感に駆られたり閉塞感を覚えるものなのだ。

例えば多くの国境が閉まる前、私は今夏のハイキングの計画を無意識に急いて立てようという衝動に駆られたり、小売店が閉まる前にはもう少しのところで割引になっていた一人用テントを買うところだった。

日中を自分の部屋以外の屋内で過ごす日課を送っていた私は、それ以前はたいてい徒歩や自転車で行くことが多く、それが日常の中でのいわば自己と自然空間とをつなぐ意識を整えるような時間になっていたのだが、それを不意に失ってしまった私は無意識のうちに、以前の生活のそれ以上に外の世界へ助けを求めて出てゆく時間が多くなった。
幸いにも住んでいた部屋は隣に一つホテルがあるだけの工業地帯近くの人気の少ない立地で、犬の散歩やジョギングに来る数人を除けば、感染の危険性がほぼなく気の向くままに歩き回れるところだった。


季節は春に向かう時。日照時間は日に日に長くなり、鳥の鳴き声は日ごとに大きくなる。
迫ってきた不確かな未来を目の前にまず私が思ったのは秋ではなくてよかったということだった。
北半球の比較的高緯度に位置するこの街は、夏に向かって急激に日照時間が長くなる。時には体調を崩す人もいるほどだ。私自身も数度この季節を経験してもいまだに慣れることはできない。年間の日照リズムというのは人が思っている以上に体内の大切なところを司っているのではないかとも思う。


初めて白夜を経験した時を振り返ってみてもそうだ。
初めの数日間はその新鮮な感覚を楽しんでいたけれど、期間が長くなるにしたがって、体のどこかしらにいつも疲れを感じるようになって暗闇を無意識に探すようになった。
極夜はそれよりもさらにダメージは大きかった。夜空に浮かぶオーロラがなければ私はそれを乗り越えることができたか分からない。数週間ぶりに陽の光を再び見た時、世界はなんて美しいのだろうと思った。
どちらも、きっと経験した人にしか分からない。必ずしもそれが素晴らしいとか価値があるということではない。むしろ私の場合はそれを知ってしまったことによって、多くの他者と分かち合える何かの感覚があの時を境に変わってしまったとも思っている。
太陽はそれほどに私たちの深いところを、強い光を照らす。

 3月下旬頃、ある日を境に鳥の声で目を覚ます日がある。朝キッチンの窓を開くと曙色の中に突然今まで聞こえなかった量の鳥の鳴き声が聞こえる日がある。
数日ごとに少しずつその種類は増えていき、ささやきあうような囀りと呼ぶにはふさわしくない、何かの焦燥に駆られているのではないかと思うようなけたたましい鳴き声になってくる。

その声になにかが刺激され、私もその閉塞感からの解放を求めて何かを探すように外へと向かう日々が始まった。

23.12.19

同じ空間に生きること*アルデンヌ

暖冬だったある年の12月にベルギーを訪れた。
訪れたのはアルデンヌの森。


ベルギーの首都ブリュッセル近郊は比較的平地なので、フランスやドイツとの国境にまたがる丘陵地帯のベルギー圏(ワロン地方)に行くと、通信や人々の話す言語がほぼきっちりとフランス語に切り替わることもあって、まるで他の国に来たような感覚になる。

この三か国にまたがる丘陵地(Rheinsh Massif)はバリスカン造山運動(Variscan orogeny)の影響を受けた褶曲構造を持つ地域であり、古生代のカンブリア紀~オルドビス紀~シルル紀の地層を含む。
アルプスもそうだけれど、このような古生代の地層の名や褶曲の様子を見てみると、今の時代は環太平洋地域と比べるとはるかに地震が少ないヨーロッパも、形成された時代には激しい造山運動の影響を受けてきたことが想像できて、やはり同じ地球の上の陸地なのだと納得できる。

訪れたのは湿地と針広混成樹林を通る散策路で、各々の計画に合わせていくつかのルートを選ぶことができる。
私はゲントからの往復、また12月の日長時間が短い時期だったこともあったので10~16時の間で歩けるルートを選んだ。

散策路沿いには野生動物の観察小屋もいくつか設置されていて、時期やタイミングによっては初心者でも観察しやすいように思える。
 私が歩いた時にはアカシカ、ノロジカ、ワタリガラス、イノシシが見られた。


ヨーロッパの多くの野生動物を楽しめる場所で言えることだけれど、日本のそのような場所と違い、野生動物ははるかに人間の気配に敏感であるのをここでもまた感じた。
場合によっては数十メートルの距離でも遭遇することはあるけれど、写真を構えて撮りたい場合であると、日本のそれ以上の望遠レンズがないとなかなか難しい。

私はそのような望遠レンズは携帯していないので、専ら双眼鏡での観察や目視で景色を眺めることがメインになっていたけれど、それはそれでカメラの中の目ではなく、自分のいる、動物たちのいる、『その空間』をそのままの倍率で自分の脳裏に焼き付けることができたようにも思う。


ヨーロッパで野生動物を観察する機会を持つようになってから、日本でのそのような場面での動物と人との距離との違いを思い起こして大いに考えさせられることが度々ある。
日本にいる間もしばし耳にしてきた『人間と近づきすぎた野生動物たちの末路』。
私の個人的な感覚ではヨーロッパでは野生動物と人との距離がそれほど近いとはあまり思えない。それはその陸地の広さ、つまり人間から遠ざかって行くことのできる非難場所があることが大きな理由だろうけれど、動物が積極的に人間と距離を取ろうとしているのを感じる。それはよく言われるような何百年にもわたる狩猟文化の影響なのか、日本と比較して林床植物の密度が低く見通しの良い森林や草原のためなのか分からないけれど。

日本で当たり前のように人里に降りてきて人慣れした動物を、それでも野生動物として見てきた私にとっては、その動物たちがここまで人間を避ける行動を見せることに時々少しショックを受ける。
おそらくそれは人間と野生動物との正しい共存の形なのだろうけれど。

一緒にハイキングをしたベルギー人曰く「その距離でしか向かい合えないこそ、見つけた時、出合った時の喜びや興奮がある。」。
本当に。実際に私もここで動物たちを目にした時、例えば北海道で車道のすぐ横にエゾシカやキタキツネを見るときとはまた違う興奮を覚えた。


それでも。
そこには人間がもう自然の中で生きる他の動物たちとは絶対に相容れることのできない明確な境界を引かれているようで、私の中にはどうしてもやりきれない悲しみが沸き上がってしまうのだ。

1.6.19

流れる水と漂う人間と*アンダルシア①

どこへ向かうにしても、旅をするときは多少ともその場所の歴史を眺めてみると、
目の前の景色が違う印象を持つことがある。


普段もガイドブックやインターネットでざっとそのあたりの情報を見て、訪れる特定の場所、例えば教会やモスク、公園の歴史を点として追ってから出発するのだけれど、アンダルシアに向かう前は必要に迫られたこともあり、線としてこの地域の歴史を追ってから出発することになった。

スペイン、特にアンダルシアといえば、イスラム帝国時代がその土地を象徴する大きなあり、実際にその地に降り立ってみても、今も至る所に残るそのどこか他のヨーロッパ諸国とは異なるエキゾチックな趣が確かにその地が独自の文化を育んできた時代を通ってきて現在に至ったことを感じさせられる重要な歴史の一部分であると思う。


日本の世界史の中ではあまり大きく扱われることの少ない、イスラム支配以前のアンダルシア地方の史実を追ってみた一部分をここに簡単に記しておく。

歴史をずっと遡れば、アンダルシアにはアフリカから渡ってきたばかりの現生人類の痕跡をみることができる。フランスのクロマニヨン人と同様に、彼らは狩猟をしながら洞窟で暮らしていたと考えられている。例えばNerja Caves(西:Cuevas de Nerja)では、紀元前2万5千年頃から居住していたと考えられている人骨が発掘されている(http://www.nerjarob.com/nerjacaves/about-the-caves/)。


『アンダルーシア風土記(永川玲二著)』によれば、アンダルシア地方はイスラム帝国になる遥か昔のローマ史以前から、その古生代から完新世までにかけて形成されていった過程で生まれた豊富な鉱脈資源と地中海に面する地の利からフェニキア人たちとの交易の拠点になっていた場所だという。
彼らは金属資源と引き換えに、冶金や農耕、さらにはアルファベットをアンダルシアの地にもたらした。

ローマ統治時代(B.C. 2~5世紀)はポエニ戦争後にスキピオが療養地として整備し、後の植民地となるイタリカ周辺が首都から離れた場所に位置しながらもローマと深い結びつきを持ち、暴君としても有名なローマ帝国5代皇帝のネロの家庭教師を務めた哲学者のセネカのような知識人を多く輩出した。このイタリカは多くの文化の発信地となることで地元民を"ローマ化(Romanization)"していく上でも重要な役割を果たす。

後の皇帝トラヤヌスはイタリア以外から選出された初めての君主となり、同じくイタリカ出身と考えられている続く皇帝のハドリアヌスとともに後々五賢帝の一人に数えられている。彼らの時代にイタリカの文化は最高潮を迎えることとなる。

やがて、ローマ帝国の衰退、ユーラシア大陸の広範囲にわたる諸民族大移動時代を経て(この時代にイタリア文化の多くが破壊や略奪により失われた)、ムーア人によるイスラム帝国時代の時代がやってくるのが8世紀のこと。

当時イベリア半島の大部分はゲルマン人の一派による西ゴート王国となっていたが、支配階級の内紛が頻発していた。
ムーア人たちはこの機に乗じて対立派の貴族からの要請を受けての支援軍としての体で、711年にジブラルタル海峡を経てイベリア半島に上陸、史実上は以降破竹の勢いでイベリア半島のほぼ全土をわずか10年弱で制圧していくことになる。


7世紀半ばまでにはイベリア半島のほぼ全部をムーア人によるイスラム支配化として塗りつぶすことになるわけではあるが、宗教や民族の入り混じるこの地を制圧していく代償はそれ相当なものがあったのだろうし、イスラム帝国内でも支配階級者による内紛はあったということだから、たとえ一時的に制圧したとしてもそれを維持していく作業には、ローマ帝国が植民地を通じてローマ化させたのとは比にならいほどの急進的で莫大な力が必要だったのではないだろうか。

それからイベリア半島の一部ではレコンキスタで再び奪還されるまで約8世紀にわたり、ムスリムの支配による時代が続く。
彼らはローマ時代からの文化を引き継ぎ、進展させ、一方では交易によって果ては極東からの文明も取り入れてその文化を発展させていく。

31.3.19

春の森への誘い*ヨーロッパのブナの森

中央~西ヨーロッパの極相植生のブナの森の林床は貧相なことが多い。
成長したブナ樹林は林冠をほぼ覆ってしまい、光の届かない林床では他の植物が繁茂することが難しいためである。

そんなブナの森ではあるが、秋の紅葉と春のスプリングエフェメラルと呼ばれる短期に一斉に花を咲かせる植物たちの作る息をのむような空間には魅了させられる。


赤ずきんの女の子が、森で熊と出会った女の子の通った道はこんな様子だったのだろうか、と歴史的な文化遺産を見る以外ではヨーロッパではなかなかない、幻想の世界に迷い込んだ錯覚になるのは特に春の白い絨毯が広がる時期(4~5月頃)である。

木々の合間から差し込む春の陽射しも柔らかく、美しい。

スノードロップ
(Snowdrop, Schmalblättiges Schneeglöckchen, Galanthus angustifolius

春先一番に、時には雪の下から花を覗かせるのは日本でも園芸種として親しまれるスノードロップ(Snowdrop, Schmalblättiges Schneeglöckchen, Galanthus angustifolius)とフクジュソウに少し似たセツブンソウ属の花(Winter aconite, Winterling, Eranthis hyemalis)である。

 セツブンソウ属の花
(Winter aconite, Winterling, Eranthis hyemalis

少し明るいところや庭先ではクロッカスが咲き始めるのもこの2種が咲きだすのと同じ頃(2~3月頃)である。 日本と比較して、中央ヨーロッパの日長が急激に長くなっていくのを感じ、ヤナギ類の芽も少しずつ膨らみ始める。

イチリンソウ属(アネモネ)の仲間
(Woodanemone, Buchwindröschen, Anemone nemorosa)

 冒頭の、白いお花畑を構成するのはイチリンソウ属のアネモネと呼ばれる花の仲間である(Woodanemone, Buchwindröschen, Anemone nemorosa)。日本のニリンソウに似るが葉の形や花弁の大きさの違いから、森の中で見つけたときもより強い印象を受ける。

森の近くに長く住んでいるヨーロッパ人にとっては、これがかれらにとっての『春の森』の当たり前の風景なのであろうが、私は毎年この一面のアネモネの花の林床を見た後は、いつもどこかに魂を飛ばしてしまったような、熱に浮かされるような気分になる。

キケマン属の仲間
(Corydalis, Hohler Lerchensporn, Corydalis cava

この他にも数種よく群生して見られる種としては、キケマン属(Corydalis, Hohler Lerchensporn, Corydalis cava)の仲間がある。
この種は同じ市街の複数のブナの森でも分布している場所が限られているのが興味深い。またブナに限らない林床でも見られる。

ミスミソウ
(Kidneywort, Leberblümchen, Hepatica nobilis
写真中央右上部分にいくつか見えるのがミスミソウの葉。
その他に掌状のAnemone nemorosaの葉なども見える。 
 
この他にも林床の花はいくつか挙げられるが、私が何か宝石を見つけたような気持ちにさせられるのはミスミソウ属のミスミソウ(Kidneywort, Leberblümchen, Hepatica nobilis)である。それぞれの名前の由来は腎臓の形に似た3つに分かれた葉の形から。

この時期に咲く花の多くはキンポウゲ目の植物である。
植物の構造を見ながら同定をしていくと、同じ目の中でもその多様な色や形態の進化に様々に感心させられる。
なお、ここで紹介した種の同定にはRothmalerという植物同定のために定評のある書籍を参考にしている。
https://www.springer.com/de/book/9783662497074


もうひとつこの時期のお楽しみであるのが、日本で言うところの行者ニンニクの近縁種である(Wild garlic, Bärlauch, Allium ursinum)。ラムソンとも呼ばれているらしい。
日本と同様にスズランの仲間やアマドコロの仲間などとの取違いには注意が必要ではあるが、慣れれば匂いや姿から容易に見分けられるようになる。

ドイツではバターとしてグリルをする時に使ったり、ソースやスープにも利用されている、スーパーではなかなか見かけることはできないアミガサダケ(Morchel)と並んでアウトドア好きな人ならではの春のお楽しみの採集物の一つである。

陽の光に誘われてつい森の中へと迷い込みたくなるのがこの季節。
いつまでもこの季節であったのならばと毎年思うのだけれど、もちろんそうはいかない。
花たちは太陽の光を目いっぱいに利用して昆虫を誘い、少しずつ木々が茂っていく頃、ひっそりと実を結ぶ。
多くのスプリングエフェメラルたちは種の運搬を蟻に依存しているため、それほど広範囲へは拡大しない。けれど、少しずつ、ゆっくりと。

数日ごとに通っていると春の森の景観の変化はゆっくりのようで劇的だ。
昨日咲いていた花はしぼみ、隣の蕾だったものが咲く。そんな変化が森の林床を波打ちながら広がり、最後には少しずつに緑の中へと消えていく。

春は流れる時間の早さを感じる季節でもある。
進み戻りつしながらなかなか進んでいないように見えて、過ぎ去る頃はあっという間。
蕾が開く瞬間を、昆虫が訪れるある暖かな昼下がりを、思いがけない寒さに震える瞬間を。
流れていく時の中で少しでも多く集めていきたいと思う。

1.10.18

陸と水の間*ラヘマー国立公園

ラヘマー国立公園はエストニアの首都のタリンからバスで30分ほどの場所にある湿地帯を含むエリアである。
ちょうど湿原の成り立ちや生態系について学んでいたところだったので、バルト海沿岸の湿地帯を間近で見ながら空気を感じてみたいと前々から思っていた。

エストニアは国土の約4分の1が泥炭地(peatland)で構成されている。


ラヘマー国立公園はソビエト連邦時代の1971年に初めて登録された国立公園で、陸地域474km²、水域251km²を合わせた725km²から成る。

公園内は70%が樹木で覆われるが、植物相としては針葉樹林が多くを占める北方樹林(boreal forest)とミズゴケ類(Sphagnum属)を優占種とする苔類、その上でも生長の可能なエリカ(heather)やベリー類の低木類など、それほど豊かではない。




湿原は生態学的、あるいは水文学的な水の循環システムからの観点、地形学的な側面からいくつかのタイプにカテゴライズされるが、一つの湿原でもエリアや微小地形の差異によっていくつかのタイプの集合体からなる場合が多く、一つのカテゴリーの中でその湿原の特徴を包括させることは難しい。

今回歩いた遊歩道周辺のヴィル湿地は地形タイプとしては高層湿原(Hochmoor, raised bog)に当てはまり、水源は多く雨水に依存するために栄養は乏しく(oligotrophic)水質は酸性を示す。
歩道の脇にある水淵を眺めてみると肉眼でもそのために水が赤く見える。日本語でも親しみのあるモール(Moor)温泉の色である。

スタート地点からしばらく遊歩道は地面が比較的乾燥している北方樹林帯の中にのびる。
ここではヨーロッパアカエゾマツが優先し、地面にはタチハイゴケ(Red-stemmed Feather-moss, Pleurozium schreberi)やイワダレゴケ(Stair-step moss, Hylocomium splendens)などの苔類に、エリカ(heather)、コケモモ(Cowberry, Vaccinium vitis-idaea)、ブルーベリー(Bilberry, Vaccinium sp.)などのベリー類の低木類、加えて晩秋であったためにもう様々なキノコが顔を覗かせて地面に彩りを添えていた。



エストニアの他の国立公園と比べると、ここまではバスも日に数本通っていてアクセスは良いほうだといえる。ただし、観光バスの団体の2グループとは出会ったが、個人で訪れている旅行客は極めて少ない印象を受けた。
遊歩道は約5.5㎞から成り、湿原の上は木道が敷かれている。案内板も設置されているので迷う心配は極めて少ないと思う。

今回訪れたハイキングコースについてはRepublic of Estonia Environmental Boardの作成しているPDFが詳しい(https://www.keskkonnaamet.ee/sites/default/public/viru_raba_ENG.pdf)。
駐車場はあるが、売店のようなものはないので個人で訪れる場合はそれなりの飲食物を携帯したほうがよい。

………………

今残っているヨーロッパの湿原のうち、60%ほどはかつての泥炭の集積能力を失っているといわれる。消失の最大の要因は農耕地としての利用である。
特に、降水量が年間を通して均等に適度にある温帯地域で多く見られる湿原タイプ(Percolation mire)は、今日多くの場所で農耕・放牧地として利用されている。
さらに、今回訪れたような栄養分の少ない湿地タイプも流入する水の富栄養化からそのタイプを変化させていく傾向にある。

富栄養化していくとどうなるか。
一般的に栄養分の多い土地では繁殖能力の高い種が増える傾向にある。栄養分が少ない土地で繁殖能力と引き換えに生き抜く能力を身につけた植物たちは徐々に姿を消していく。
肥沃な土地、というのはあるところではポジティブな響きを持つけれど、多様性の観点から見るとマイナスな作用を及ぼすことになる。
特にヨーロッパでは貴重種といわれるものの多くは湿地や貧栄養の土地に息づく植物たちである。

「湿原からはすべてを学ぶことができる」という言葉は湿原の見方を変えさせてくれた方の受け売りである。
連続して続く空間をカテゴライズすることの難しさ。人間の力で管理することの意義と危うさ。一見意味の無さそうな空間が、果てしない月日を超えて私たちの生活に大きな影響をもたらしていることを深く考えること。

今まで、手つかずの自然景観といえば森をイメージしていたが、湿原という存在を少し踏み込んで学ぶことを通じてその固定観念はだいぶ変わる。

人生の一時期を湿原の近くで過ごしてきた。
当時から自然の中で過ごすことが好きだったにもかかわらず、正直なところあまり湿原に特別な魅力を感じたことはなかった。

一見意味の無さそうで退屈な空間。
はたまた、苦しくてもがきたくなるそんな空間にいる時間も。必ず前後左右に、また過去から未来に繋げられている一つの地点。
きっと「湿原」だけではなく他のことからもそんなことを考えることはあるのだろうけれど。

どこまでも続く水と陸地の狭間が織りなす、「均衡」を感じる空間で、自分という存在が、今この瞬間に立っている「均衡点」について感じ、思いを巡らせる。

19.9.18

鳥たちの通過する場所・暮らす場所*バルト海沿岸

これは私の個人的な経験からの推測ではあるけれど、ヨーロッパは野鳥愛好家が日本と比べて多い場所だと思う。

聞いたところでは、ドイツでは特にバルト海沿岸の地域に愛鳥家は多いという。
この地域は夏場に多くの湿地性の鳥が見られることもさることながら、春と夏の渡りの季節に、さらに北へと飛んでいく鳥や南へと帰っていく鳥を見られる機会が多いことが影響しているのだろうと思う。


実際、沿岸の街に越してきたときはちょうど初秋だったこともあり、急激に日の出が遅くなる時期に多くの鶴たちがまだ薄暗い朝の行動時間に隊をなして空を横切っていく様子を見たときはその光景に感動したものだった。


北海道の道東地域に暮らしていた時にタンチョウは何度も間近でも見たことはあったが、渡りをしている様子を目にしたことはなかった。近年は道東地方で越冬している個体も多いとも聞く。


ヨーロッパで一般的にみられる鶴(Common Crane / Grus grus)は和名ではクロヅルと呼ばれる。 姿は北海道で見られるタンチョウヅル(Red-crowned Crane / Grus japonensis)とあまり大きな違いは見られないが、和名にあるように、色は明らかに黒ずんでいる。

日本ではタンチョウは色々なモチーフやシンボルとして描かれることが多いが、個人的にはタンチョウヅルのあのはっきりとした白色あってこそなのではないかとも思う。
クロヅルは夏に青々としている草原や畑の中にいてもタンチョウヅルほど強烈な印象はない。

だからと言ってヨーロッパで鶴の人気がないわけではなく、鶴の渡りの状況などを日々刻々と覗けるプラットフォームも存在し、むしろなかなか人々の関心は高い種であると思う。

個人的には、こちらクロヅルは渡りの頃の藁色の草原と赤みを増した太陽光の中でこそ、美しい印象に残る鶴であると思う。


多くの渡り鳥は夏の間をヨーロッパの高緯度地域で過ごし、冬の間はアフリカや地中海沿岸地域などの低緯度・温暖地域で過ごす。
鳥類の起源は低緯度地域であるが、繁殖成功率を上げるために徐々に季節的に高緯度地域へと移動するグループが出現するようになった、と鳥類学で学んだ。

一年に2回も何千キロもの移動をすることは、小さな体の彼らにとって負担にならないはずがない。
それでも彼らに組み込まれた遺伝子と環境からの刺激との相互作用は、彼らに移動しなければならない衝動のようなものを与えるのだろう(一方で気候や環境条件の変化によって数世代で渡りをしなくなることもあるという)。

いったいどこが彼らにとっての故郷なのだろう、いや、そもそもそんな感覚はないのだろうか。
そんなことを思いながら秋の黄金色の中で彼らの渡りを見送る。

7.7.18

水辺の街のひと時*北ドイツ湖水地方


あるひと夏を私は北ドイツの水辺の小さな街で過ごした。
これまで過ごしたことのあるドイツとは違い、文化を売りにした観光地ではなく保養地という名がふさわしい土地だ。

家を出て10分もすれば湖にたどりつく。
ここから氷河地形の作った丘陵地帯の間の広い青空を映す水面は、どんな時も心を穏やかにしてくれる。

人口6万人ほどの街は旧市街は戦時中にすっかり破壊され、DDR時代に建てられた‘味気のない’街並みになっている。
けれど私は、この‛味気の無さ’、と中心部から徒歩でも20分とかからない水辺の緑あふれる景観との対比がなかなか気に入っていて、街にも水辺にも毎日のように歩きに出た。


湖の岸辺には小さな人工島があるが、ここには戦時中に水爆の実験工場が建てられていたのだが、現在は限られたダイバーが近づく他は水鳥の楽園となっている。


水浴はもちろんのことだが、カヌーや釣り、ビーチバレーなど水辺には様々なレジャーをする人々で毎日賑わう。


そのほか、特に旧東ドイツでは一般的だったFKK(Freikörperkultur)裸での日光浴が認められている場所がいくつかあり、はじめ何も知らずにその場所を散歩で通った私は大きな衝撃を受けた。
なんだか服を着て歩いている自分が恥ずかしくなり、そこに一糸まとわずに気持ち良く人たちが羨ましく思える不思議な感覚になった。
どこかで古くの日本もそんな文化があったということを聞いたことがある。

時間の流れというのはどこも同じはずなのに、時々陽の光を存分に浴びながら夜10時過ぎまで明るい夜をたっぷり楽しんでいる人々を見て、どこか自分が損をしているような気分になった。


体に浸み込んでいる体内時計、まだまだ季節の変わり目の急激な日長の変化にはどうにもなれることができない。
それでも時間は世界中同じように流れていく。