12.9.21

一人+行き交う人々*クングスレーデン・ラップランド②

 クングスレーデンには2つの道があるけれど、私が選んだのはそのうちの北のもの。

そしてその中でも10日間ほど取った休暇内で歩き通すことのできるNikkaluoktaからAbiskoまでの行程。7日間きっかりの旅程で計算したのは模範的な旅行者ではないけれど(1-2日程度の予備日を取っておくと精神的に楽で望ましい)、Interrailチケットでの旅だったので、もしどうしても無理だと思ったら3日目の行程で引き返そうと考えていた。

夜行列車と普通列車を乗り継いでたどり着いたのはKirunaという炭鉱の町。炭鉱を広げるために街ごと移動したという奇妙な歴史のある場所だ。

 

北へと向かう車窓からの眺め。色づいた広葉樹林の合間に時々湖が見える。

夜行列車から乗り換えてKirunaまでの道中で、近くにいたアルメニア人とインド人と知り合う。

アルメニア人の方は乗り換えのプラットホームでおもむろに近寄ってきた。どうやらある程度の年齢コードに引っかかるすべての人に声をかけている模様。最初の第一声は君が夜行列車に乗っているなんて知らなかったよ!なんで今まで見つけられなかったんだろう―

話を聞くと交際していた女性と肉体関係を持ったために、女性の家族が雇ったマフィアに追われている―というなんとも日本であれば江戸時代あたりの話か…と思ってしまうような背景を持つ20代後半の男性。半信半疑で話を聞いていたら、日本のヤクザと同じなんだ。居場所が見つかったら殺されるんだ―と。最初はイタリアに渡り、しばらくしてドイツへ。でも同じ飲食業でも北欧では圧倒的に賃金に差があることを知り、遂には北欧の、それもスウェーデンの最北の街のKirunaで働こうと決心してはるばるここまでやって来たという。

仕事はもう見つけているのかと尋ねると、これから探す、と言う。こんな北の街で屋外に放り出しておく人間はいないだろう、と。服装は半袖のTシャツに持ち物は小さなデイバックのみで、地中海地域からそのままやって来たようない出で立ち。まず列車から降りて街まで歩くのに大丈夫だろうか、とやや心配になる。が、社交辞令としての同情を示すだけでも、完全にお互いの距離感が違う位置で次の会話へと進んでいきそうになるのを感じたので、列車の乗り換えで指定席になったのを機に、幸運を祈って(I wish you good luck in your new life!)お別れをした。押され気味で交換したSNSを時折見てみると、彼の思惑通りどうにかやっている様子。

そんな最初の奇妙な旅でのめぐり逢いを終えて指定席に座っていると、一駅ごとに増える増えるスウェーデン人のトレッカーたち。列車内の網棚はトレッキング用の大きなバックパックで埋まっている。斜め向かいに座っているのはどうやらフィンランド人のカップルで聞きなれないメロディーで会話をしている。お、キートスは私も知ってる単語。女性の方は私と同じメーカーのトレッキングシューズを履いていて、あまり知らないので悩んで買った海外メーカー信頼を少し得られた。あまりにもその二人の飲むコーヒーが美味しそうだったので、たまらずにコーヒーを買いに行く。戻ってみると、ちょうど別の主要なトレッキングコースの出発点近くにある駅を通過したのか、大乗客は減っており、2人も空の紙のコーヒーカップを残して居なくなっていた。


 フィンランド人のカップルと、向かいには後に話をすることになるインド人のデイバック

 

インド人の方は、その前の込み合っていた時点から向かいに座っていた20代前半の男性で、日帰りの散策に行くにしても少ない荷物だなあ、となんとなく思って眺めていた人物だった。 膝の上には黒いデイバックが一つだけ。周りの人がいなくなったのをきっかけに、なんとなく、どこへ行くのかと尋ねてみる。目的地は同じくKirunaだった。けれど、彼はLuleåで交換留学生をしていて、その前学期に滞在していたイギリスから引っ越してきた後に使っていた残りのInterrailチケットでフラっと北に行く電車に乗ってみたのだという。ああ、Luleåは確かラップランドへと向かう列車の分岐点となる駅で聞き覚えがある。聞けば私が以前に訪れたことのあるスロベニアの首都リュブリャナにも滞在していたと言い、頭に浮かんでくる思い出について色々と話した。竜のオブジェが素敵だよね。あぁ、またいつの日か行けるだろうか。街中を流れるリュブリャニツァ川とその川沿いに連なるカフェ。入ったお店で日本人の女性に声をかけられたと思ったら、エホバの証人の会員の人で延々と話を聞かされたっけ…。2回目に行ったのはクロアチアのザグレブに住んでいた時。当時雇ってもらっていたオーナーさんに連れられて、アイスを食べにリュブリャナへ。いつも比較のために食べるレモン味のジェラードはとても美味しかったと記憶してる。あの時も川沿いの雰囲気がとても印象に残っている。庶民的な賑わいのあるザグレブのマルクト近辺とは違った、整った美しさのある中心部だった。

インド人と聞かなければ分からないほど癖のない英語で私にはとても助かったし、私が英語は実は苦手であることを話すと、こうやって会話ができるなら全てOKだよ、と言ってくれる言葉にほっとした。つい2週間前に引っ越してきたばかりだという彼は、今から長い夜の冬が少し心配だ、と話す。そんな言葉にいつまでも続く極夜のスピッツベルゲンの話をする。別の世界に生きている感じだよ。でも髪の毛が抜けるからビタミンDを取って、時々強い光には当たったほうが良いよ、と。Kirunaからバスに乗ってNikkaluoktaへと向かうバスへ乗る私と、街や教会を見る予定だ、という彼はバス乗り場のところで別れた。彼もアルメニアの先の彼と同じく美しい雪景色の中で友達と笑顔でいる写真を載せていたので、きっと元気にやっていることだろう。いくつもの都市に住んだ経験のある彼ならもともと大丈夫だとは思っていたけれど。 

 

とても新しくて清潔ではあったけれど、なんだか工業地帯の端に付け足されたようなKirunaの駅でバスに乗り換えて、ここからはNikkaluoktaへと向かう。念のためにストックホルムで両替はしていたけれど、インターネットで買っていたチケットもスマートフォンの画面を見せたら大丈夫で一安心。

さて、バスの終着地にはどんな光景が広がっているのか。

10.9.21

籠ること、拓くこと*クングスレーデン・ラップランド①

休暇を取るきっかけがなかなか掴めないうちに夏が超えてしまいそうになった。

本当は別に計画していた場所があったけれど、目標としていた場所の手前で、突如として私の目の前に深く広い湖が現れた。それまでは湖の対岸にはきらきらと光が差していて、きっとその場所こそが私の胸の奥にある羅針盤の差す方向だと信じて疑うことなく進んでいた。

だけれど、ある時私はその湖の向こうには到達することはできない、とついに悟った。上空には黒雲が立ち込め、風が吹き始め、もう私は進んでいくことができなかった。そしてきらきらと光るその対岸は、遠のき、霞んでいくように見えた。

 

もう進まないと決めてからも冷たい雨が私の心を幾日も降り注いで、周りの風は私の肌を切て通り過ぎていくようだった。むき出しになってしまった羽を休めたかった。

けれど同時に、新しい進路を見つけたくて、それまで費やしてきた時間が何かしら生産的な時間であったとどうにか理由をつけて自分に納得させたくて、藻掻く日々だった。けれど、藻掻くほどに心も身体はどこかに引きずり込まれていくような感覚があった。

 

人の心は簡単に壊れてしまうものだろうな、ということを初めて感じた日々だった。周りと自分の間にはいつの間にか緞帳が下ろされてしまっていた。それは他の誰にも見えない。精神を周りから切り離していってしまった友人や知り合いは私にも何人かいた。何か力になりたくても、話を聞いても、でも何もが満たされているあなたには分からない、という言葉をよくそんな人たちから会話の最後に浴びた。

私の場合はそれは絞り緞帳くらいだったと思う。それは揺れていたから、開けることができるものだということも感じることができたし、時折その僅かに開いた中央の隙間を通して、まだ私が他の人たちの同じ空気を吸って生きていけるということも理解できた。

その幕の中で生きていけばもう冷たい雨に当たることもないのかもしれないとも思った。とにかく救いを探して、本を読み、音楽を聴き、言葉を書き出し、絵を描き…。

けれど私は、外に行くことで自分の立ち位置を確認する、という生来から染みついた自分の習性に従うという方法も試さずにはいられなかった。

できれば人と生き方を比べる必要のない場所へ。途方もなく広く、本当に物理的に一人となって自分の心と向き合える場所。


目的地に決めたのは夏用に計画していた装備ではややぎりぎりのところではあったけれど、予てから行きたかった場所の北欧。

いくつかの都市には行ったことはあって、そのどこか余裕のある生活スタイルや、自然と調和のとれた都市景観も好きではあったけれど、結局のところ世界中どこにも理想郷のような社会システムを持った人間社会はないというのは、どうしても感じるようになっていたから、それよりも別のベクトルへと自分を世界から切り離せる場所が必要だと思った。

心に浮かんできたのは、私の心の一つの軸となっているスピッツベルゲンの空気。けれど、当時、スピッツベルゲン島やノルウェーでは、まだ強めの防疫対策が取られていて検査や隔離処置なしに休暇内に旅を終えられるかが不透明だった。

そんな経緯があって決めたスウェーディッシュ・ラップランド地方のクングスレーデンのロングトレイルの一部。ロングトレイルの中では整備された道ではあるようだったけれど、ヨーロッパではおろか、日本でも1週間近くの日程を一人でテントを背負って歩いた経験は私には一度もなかった。

 

装備をそろえて、目的地まで約2日間かかる列車に乗り込む。宿代がかからない分、夜行列車では一人部屋を予約した。

途中の列車の中で夜中に検札に来た若めの車掌が私のチケットをやけに長く眺めていたので何か不備でもしたかとやや不安に思っていると、目的地を指さして、「ここは去年家族や子どもたちとと行ってとても良かったよ。この季節は紅葉が素晴らしいと思うので、楽しんできてくださいね。」と。

たった一瞬の言葉であっても、良い旅を、というありきたりの祈りのフレーズに、ただ一言二言だけ自分の経験の何かが付け足されただけで、私の中でシャッターが押されて、その時の列車内の明かりや、毛布の手触り、私のその時の心境と共に、旅の中の特別な記憶として保管される。それは私の心がそれほどに疲弊していたから起こったことなのかは分からないけれど。



その夜、その車掌が去って行って、線路の上でまたがる2つの日の間を揺れながら思ったこと。

自分がどんなにからの中に籠っていようとも、もしくは毎日をやりすごすことができる心の状態であろうとも、こういう瞬間を記憶として留められる心を持っている人でありたい。そして、私自身も誰かにこういう小さな記憶として留めてもらえる人であれたら幸せだな、ということ。

30.3.20

手の届く広さの世界の季節の移ろいと*閉ざされる街



2019年の年末から世界では疫病が流行して、私たち人間たちは多かれ少なかれ、今までの生活をしばらくの間ある程度変えざるを得なくなった。
 しばらく間、 というのがどれくらいのスパンなのかはおそらくこの地球上の人間の誰も分からない。


私の過ごしていた街でも公共施設が閉まり、飲食店が閉まり、小売店が閉まり、他地域との境界線もついには閉ざされた。
私は自動車も持っていないので、普段の週末休みに越境することなどは滅多にないのだけれど、人間というのは不思議なもので、制限される生活空間を言い渡されると焦燥感に駆られたり閉塞感を覚えるものなのだ。

例えば多くの国境が閉まる前、私は今夏のハイキングの計画を無意識に急いて立てようという衝動に駆られたり、小売店が閉まる前にはもう少しのところで割引になっていた一人用テントを買うところだった。

日中を自分の部屋以外の屋内で過ごす日課を送っていた私は、それ以前はたいてい徒歩や自転車で行くことが多く、それが日常の中でのいわば自己と自然空間とをつなぐ意識を整えるような時間になっていたのだが、それを不意に失ってしまった私は無意識のうちに、以前の生活のそれ以上に外の世界へ助けを求めて出てゆく時間が多くなった。
幸いにも住んでいた部屋は隣に一つホテルがあるだけの工業地帯近くの人気の少ない立地で、犬の散歩やジョギングに来る数人を除けば、感染の危険性がほぼなく気の向くままに歩き回れるところだった。


季節は春に向かう時。日照時間は日に日に長くなり、鳥の鳴き声は日ごとに大きくなる。
迫ってきた不確かな未来を目の前にまず私が思ったのは秋ではなくてよかったということだった。
北半球の比較的高緯度に位置するこの街は、夏に向かって急激に日照時間が長くなる。時には体調を崩す人もいるほどだ。私自身も数度この季節を経験してもいまだに慣れることはできない。年間の日照リズムというのは人が思っている以上に体内の大切なところを司っているのではないかとも思う。


初めて白夜を経験した時を振り返ってみてもそうだ。
初めの数日間はその新鮮な感覚を楽しんでいたけれど、期間が長くなるにしたがって、体のどこかしらにいつも疲れを感じるようになって暗闇を無意識に探すようになった。
極夜はそれよりもさらにダメージは大きかった。夜空に浮かぶオーロラがなければ私はそれを乗り越えることができたか分からない。数週間ぶりに陽の光を再び見た時、世界はなんて美しいのだろうと思った。
どちらも、きっと経験した人にしか分からない。必ずそれが素晴らしいということではない。むしろ私の場合はそれを知ってしまったことによって、多くの他者と分かち合える何かの感覚があの時を境に変わってしまったとも思っている。
太陽はそれほどに私たちの深いところを強い光を照らす。

 3月下旬頃、ある日を境に鳥の声で目を覚ます日がある。朝キッチンの窓を開くと曙色の中に突然今まで聞こえなかった量の鳥の鳴き声が聞こえる日がある。
数日ごとに少しずつその種類は増えていき、ささやきあうような囀りと呼ぶにはふさわしくない、何かの焦燥に駆られているのではないかと思うようなけたたましい鳴き声になってくる。

その声になにかが刺激され、私もその閉塞感からの解放を求めて何かを探すように外へと向かう日々が始まった。

23.12.19

同じ空間に生きること*アルデンヌ

暖冬だったある年の12月にベルギーを訪れた。
訪れたのはアルデンヌの森。


ベルギーの首都ブリュッセル近郊は比較的平地なので、フランスやドイツとの国境にまたがる丘陵地帯のベルギー圏(ワロン地方)に行くと、通信や人々の話す言語がほぼきっちりとフランス語に切り替わることもあって、まるで他の国に来たような感覚になる。

この三か国にまたがる丘陵地(Rheinsh Massif)はバリスカン造山運動(Variscan orogeny)の影響を受けた褶曲構造を持つ地域であり、古生代のカンブリア紀~オルドビス紀~シルル紀の地層を含む。
アルプスもそうだけれど、このような古生代の地層の名や褶曲の様子を見てみると、今の時代は環太平洋地域と比べるとはるかに地震が少ないヨーロッパも、形成された時代には激しい造山運動の影響を受けてきたことが想像できて、やはり同じ地球の上の陸地なのだと納得できる。

訪れたのは湿地と針広混成樹林を通る散策路で、各々の計画に合わせていくつかのルートを選ぶことができる。
私はゲントからの往復、また12月の日長時間が短い時期だったこともあったので10~16時の間で歩けるルートを選んだ。

散策路沿いには野生動物の観察小屋もいくつか設置されていて、時期やタイミングによっては初心者でも観察しやすいように思える。
 私が歩いた時にはアカシカ、ノロジカ、ワタリガラス、イノシシが見られた。


ヨーロッパの多くの野生動物を楽しめる場所で言えることだけれど、日本のそのような場所と違い、野生動物ははるかに人間の気配に敏感であるのをここでもまた感じた。
場合によっては数十メートルの距離でも遭遇することはあるけれど、写真を構えて撮りたい場合であると、日本のそれ以上の望遠レンズがないとなかなか難しい。

私はそのような望遠レンズは携帯していないので、専ら双眼鏡での観察や目視で景色を眺めることがメインになっていたけれど、それはそれでカメラの中の目ではなく、自分のいる、動物たちのいる、『その空間』をそのままの倍率で自分の脳裏に焼き付けることができたようにも思う。


ヨーロッパで野生動物を観察する機会を持つようになってから、日本でのそのような場面での動物と人との距離との違いを思い起こして大いに考えさせられることが度々ある。
日本にいる間もしばし耳にしてきた『人間と近づきすぎた野生動物たちの末路』。
私の個人的な感覚ではヨーロッパでは野生動物と人との距離がそれほど近いとはあまり思えない。それはその陸地の広さ、つまり人間から遠ざかって行くことのできる非難場所があることが大きな理由だろうけれど、動物が積極的に人間と距離を取ろうとしているのを感じる。それはよく言われるような何百年にもわたる狩猟文化の影響なのか、日本と比較して林床植物の密度が低く見通しの良い森林や草原のためなのか分からないけれど。

日本で当たり前のように人里に降りてきて人慣れした動物を、それでも野生動物として見てきた私にとっては、その動物たちがここまで人間を避ける行動を見せることに時々少しショックを受ける。
おそらくそれは人間と野生動物との正しい共存の形なのだろうけれど。

一緒にハイキングをしたベルギー人曰く「その距離でしか向かい合えないこそ、見つけた時、出合った時の喜びや興奮がある。」。
本当に。実際に私もここで動物たちを目にした時、例えば北海道で車道のすぐ横にエゾシカやキタキツネを見るときとはまた違う興奮を覚えた。


それでも。
そこには人間がもう自然の中で生きる他の動物たちとは絶対に相容れることのできない明確な境界を引かれているようで、私の中にはどうしてもやりきれない悲しみが沸き上がってしまうのだ。

1.6.19

流れる水と漂う人間と*アンダルシア①

どこへ向かうにしても、旅をするときは多少ともその場所の歴史を眺めてみると、
目の前の景色が違う印象を持つことがある。


普段もガイドブックやインターネットでざっとそのあたりの情報を見て、訪れる特定の場所、例えば教会やモスク、公園の歴史を点として追ってから出発するのだけれど、アンダルシアに向かう前は必要に迫られたこともあり、線としてこの地域の歴史を追ってから出発することになった。

スペイン、特にアンダルシアといえば、イスラム帝国時代がその土地を象徴する大きなあり、実際にその地に降り立ってみても、今も至る所に残るそのどこか他のヨーロッパ諸国とは異なるエキゾチックな趣が確かにその地が独自の文化を育んできた時代を通ってきて現在に至ったことを感じさせられる重要な歴史の一部分であると思う。


日本の世界史の中ではあまり大きく扱われることの少ない、イスラム支配以前のアンダルシア地方の史実を追ってみた一部分をここに簡単に記しておく。

歴史をずっと遡れば、アンダルシアにはアフリカから渡ってきたばかりの現生人類の痕跡をみることができる。フランスのクロマニヨン人と同様に、彼らは狩猟をしながら洞窟で暮らしていたと考えられている。例えばNerja Caves(西:Cuevas de Nerja)では、紀元前2万5千年頃から居住していたと考えられている人骨が発掘されている(http://www.nerjarob.com/nerjacaves/about-the-caves/)。


『アンダルーシア風土記(永川玲二著)』によれば、アンダルシア地方はイスラム帝国になる遥か昔のローマ史以前から、その古生代から完新世までにかけて形成されていった過程で生まれた豊富な鉱脈資源と地中海に面する地の利からフェニキア人たちとの交易の拠点になっていた場所だという。
彼らは金属資源と引き換えに、冶金や農耕、さらにはアルファベットをアンダルシアの地にもたらした。

ローマ統治時代(B.C. 2~5世紀)はポエニ戦争後にスキピオが療養地として整備し、後の植民地となるイタリカ周辺が首都から離れた場所に位置しながらもローマと深い結びつきを持ち、暴君としても有名なローマ帝国5代皇帝のネロの家庭教師を務めた哲学者のセネカのような知識人を多く輩出した。このイタリカは多くの文化の発信地となることで地元民を"ローマ化(Romanization)"していく上でも重要な役割を果たす。

後の皇帝トラヤヌスはイタリア以外から選出された初めての君主となり、同じくイタリカ出身と考えられている続く皇帝のハドリアヌスとともに後々五賢帝の一人に数えられている。彼らの時代にイタリカの文化は最高潮を迎えることとなる。

やがて、ローマ帝国の衰退、ユーラシア大陸の広範囲にわたる諸民族大移動時代を経て(この時代にイタリア文化の多くが破壊や略奪により失われた)、ムーア人によるイスラム帝国時代の時代がやってくるのが8世紀のこと。

当時イベリア半島の大部分はゲルマン人の一派による西ゴート王国となっていたが、支配階級の内紛が頻発していた。
ムーア人たちはこの機に乗じて対立派の貴族からの要請を受けての支援軍としての体で、711年にジブラルタル海峡を経てイベリア半島に上陸、史実上は以降破竹の勢いでイベリア半島のほぼ全土をわずか10年弱で制圧していくことになる。


7世紀半ばまでにはイベリア半島のほぼ全部をムーア人によるイスラム支配化として塗りつぶすことになるわけではあるが、宗教や民族の入り混じるこの地を制圧していく代償はそれ相当なものがあったのだろうし、イスラム帝国内でも支配階級者による内紛はあったということだから、たとえ一時的に制圧したとしてもそれを維持していく作業には、ローマ帝国が植民地を通じてローマ化させたのとは比にならいほどの急進的で莫大な力が必要だったのではないだろうか。

それからイベリア半島の一部ではレコンキスタで再び奪還されるまで約8世紀にわたり、ムスリムの支配による時代が続く。
彼らはローマ時代からの文化を引き継ぎ、進展させ、一方では交易によって果ては極東からの文明も取り入れてその文化を発展させていく。

31.3.19

春の森への誘い*ヨーロッパのブナの森

中央~西ヨーロッパの極相植生のブナの森の林床は貧相なことが多い。
成長したブナ樹林は林冠をほぼ覆ってしまい、光の届かない林床では他の植物が繁茂することが難しいためである。

そんなブナの森ではあるが、秋の紅葉と春のスプリングエフェメラルと呼ばれる短期に一斉に花を咲かせる植物たちの作る息をのむような空間には魅了させられる。


赤ずきんの女の子が、森で熊と出会った女の子の通った道はこんな様子だったのだろうか、と歴史的な文化遺産を見る以外ではヨーロッパではなかなかない、幻想の世界に迷い込んだ錯覚になるのは特に春の白い絨毯が広がる時期(4~5月頃)である。

木々の合間から差し込む春の陽射しも柔らかく、美しい。

スノードロップ
(Snowdrop, Schmalblättiges Schneeglöckchen, Galanthus angustifolius

春先一番に、時には雪の下から花を覗かせるのは日本でも園芸種として親しまれるスノードロップ(Snowdrop, Schmalblättiges Schneeglöckchen, Galanthus angustifolius)とフクジュソウに少し似たセツブンソウ属の花(Winter aconite, Winterling, Eranthis hyemalis)である。

 セツブンソウ属の花
(Winter aconite, Winterling, Eranthis hyemalis

少し明るいところや庭先ではクロッカスが咲き始めるのもこの2種が咲きだすのと同じ頃(2~3月頃)である。 日本と比較して、中央ヨーロッパの日長が急激に長くなっていくのを感じ、ヤナギ類の芽も少しずつ膨らみ始める。

イチリンソウ属(アネモネ)の仲間
(Woodanemone, Buchwindröschen, Anemone nemorosa)

 冒頭の、白いお花畑を構成するのはイチリンソウ属のアネモネと呼ばれる花の仲間である(Woodanemone, Buchwindröschen, Anemone nemorosa)。日本のニリンソウに似るが葉の形や花弁の大きさの違いから、森の中で見つけたときもより強い印象を受ける。

森の近くに長く住んでいるヨーロッパ人にとっては、これがかれらにとっての『春の森』の当たり前の風景なのであろうが、私は毎年この一面のアネモネの花の林床を見た後は、いつもどこかに魂を飛ばしてしまったような、熱に浮かされるような気分になる。

キケマン属の仲間
(Corydalis, Hohler Lerchensporn, Corydalis cava

この他にも数種よく群生して見られる種としては、キケマン属(Corydalis, Hohler Lerchensporn, Corydalis cava)の仲間がある。
この種は同じ市街の複数のブナの森でも分布している場所が限られているのが興味深い。またブナに限らない林床でも見られる。

ミスミソウ
(Kidneywort, Leberblümchen, Hepatica nobilis
写真中央右上部分にいくつか見えるのがミスミソウの葉。
その他に掌状のAnemone nemorosaの葉なども見える。 
 
この他にも林床の花はいくつか挙げられるが、私が何か宝石を見つけたような気持ちにさせられるのはミスミソウ属のミスミソウ(Kidneywort, Leberblümchen, Hepatica nobilis)である。それぞれの名前の由来は腎臓の形に似た3つに分かれた葉の形から。

この時期に咲く花の多くはキンポウゲ目の植物である。
植物の構造を見ながら同定をしていくと、同じ目の中でもその多様な色や形態の進化に様々に感心させられる。
なお、ここで紹介した種の同定にはRothmalerという植物同定のために定評のある書籍を参考にしている。
https://www.springer.com/de/book/9783662497074


もうひとつこの時期のお楽しみであるのが、日本で言うところの行者ニンニクの近縁種である(Wild garlic, Bärlauch, Allium ursinum)。ラムソンとも呼ばれているらしい。
日本と同様にスズランの仲間やアマドコロの仲間などとの取違いには注意が必要ではあるが、慣れれば匂いや姿から容易に見分けられるようになる。

ドイツではバターとしてグリルをする時に使ったり、ソースやスープにも利用されている、スーパーではなかなか見かけることはできないアミガサダケ(Morchel)と並んでアウトドア好きな人ならではの春のお楽しみの採集物の一つである。

陽の光に誘われてつい森の中へと迷い込みたくなるのがこの季節。
いつまでもこの季節であったのならばと毎年思うのだけれど、もちろんそうはいかない。
花たちは太陽の光を目いっぱいに利用して昆虫を誘い、少しずつ木々が茂っていく頃、ひっそりと実を結ぶ。
多くのスプリングエフェメラルたちは種の運搬を蟻に依存しているため、それほど広範囲へは拡大しない。けれど、少しずつ、ゆっくりと。

数日ごとに通っていると春の森の景観の変化はゆっくりのようで劇的だ。
昨日咲いていた花はしぼみ、隣の蕾だったものが咲く。そんな変化が森の林床を波打ちながら広がり、最後には少しずつに緑の中へと消えていく。

春は流れる時間の早さを感じる季節でもある。
進み戻りつしながらなかなか進んでいないように見えて、過ぎ去る頃はあっという間。
蕾が開く瞬間を、昆虫が訪れるある暖かな昼下がりを、思いがけない寒さに震える瞬間を。
流れていく時の中で少しでも多く集めていきたいと思う。

1.10.18

陸と水の間*ラヘマー国立公園

ラヘマー国立公園はエストニアの首都のタリンからバスで30分ほどの場所にある湿地帯を含むエリアである。
ちょうど湿原の成り立ちや生態系について学んでいたところだったので、バルト海沿岸の湿地帯を間近で見ながら空気を感じてみたいと前々から思っていた。

エストニアは国土の約4分の1が泥炭地(peatland)で構成されている。


ラヘマー国立公園はソビエト連邦時代の1971年に初めて登録された国立公園で、陸地域474km²、水域251km²を合わせた725km²から成る。

公園内は70%が樹木で覆われるが、植物相としては針葉樹林が多くを占める北方樹林(boreal forest)とミズゴケ類(Sphagnum属)を優占種とする苔類、その上でも生長の可能なエリカ(heather)やベリー類の低木類など、それほど豊かではない。




湿原は生態学的、あるいは水文学的な水の循環システムからの観点、地形学的な側面からいくつかのタイプにカテゴライズされるが、一つの湿原でもエリアや微小地形の差異によっていくつかのタイプの集合体からなる場合が多く、一つのカテゴリーの中でその湿原の特徴を包括させることは難しい。

今回歩いた遊歩道周辺のヴィル湿地は地形タイプとしては高層湿原(Hochmoor, raised bog)に当てはまり、水源は多く雨水に依存するために栄養は乏しく(oligotroohic)水質は酸性を示す。
歩道の脇にある水淵を眺めてみると肉眼でもそのために水が赤く見える。日本語でも親しみのあるモール(Moor)温泉の色である。

スタート地点からしばらく遊歩道は地面が比較的乾燥している北方樹林帯の中にのびる。
ここではヨーロッパアカエゾマツが優先し、地面にはタチハイゴケ(Red-stemmed Feather-moss, Pleurozium schreberi)やイワダレゴケ(Stair-step moss, Hylocomium splendens)などの苔類に、エリカ(heather)、コケモモ(Cowberry, Vaccinium vitis-idaea)、ブルーベリー(Bilberry, Vaccinium sp.)などのベリー類の低木類、加えて晩秋であったためにもう様々なキノコが顔を覗かせて地面に彩りを添えていた。



エストニアの他の国立公園と比べると、ここまではバスも日に数本通っていてアクセスは良いほうだといえる。ただし、観光バスの団体の2グループとは出会ったが、個人で訪れている旅行客は極めて少ない印象を受けた。
遊歩道は約5.5㎞から成り、湿原の上は木道が敷かれている。案内板も設置されているので迷う心配は極めて少ないと思う。

今回訪れたハイキングコースについてはRepublic of Estonia Environmental Boardの作成しているPDFが詳しい(https://www.keskkonnaamet.ee/sites/default/public/viru_raba_ENG.pdf)。
駐車場はあるが、売店のようなものはないので個人で訪れる場合はそれなりの飲食物を携帯したほうがよい。

………………

今残っているヨーロッパの湿原のうち、60%ほどはかつての泥炭の集積能力を失っているといわれる。消失の最大の要因は農耕地としての利用である。
特に、降水量が年間を通して均等に適度にある温帯地域で多く見られる湿原タイプ(Percolation mire)は、今日多くの場所で農耕・放牧地として利用されている。
さらに、今回訪れたような栄養分の少ない湿地タイプも流入する水の富栄養化からそのタイプを変化させていく傾向にある。

富栄養化していくとどうなるか。
一般的に栄養分の多い土地では繁殖能力の高い種が増える傾向にある。栄養分が少ない土地で繁殖能力と引き換えに生き抜く能力を身につけた植物たちは徐々に姿を消していく。
肥沃な土地、というのはあるところではポジティブな響きを持つけれど、多様性の観点から見るとマイナスな作用を及ぼすことになる。
特にヨーロッパでは貴重種といわれるものの多くは湿地や貧栄養の土地に息づく植物たちである。

「湿原からはすべてを学ぶことができる」という言葉は湿原の見方を変えさせてくれた方の受け売りである。
連続して続く空間をカテゴライズすることの難しさ。人間の力で管理することの意義と危うさ。一見意味の無さそうな空間が、果てしない月日を超えて私たちの生活に大きな影響をもたらしていることを深く考えること。

今まで、手つかずの自然景観といえば森をイメージしていたが、湿原という存在を少し踏み込んで学ぶことを通じてその固定観念はだいぶ変わる。

人生の一時期を湿原の近くで過ごしてきた。
当時から自然の中で過ごすことが好きだったにもかかわらず、正直なところあまり湿原に特別な魅力を感じたことはなかった。

一見意味の無さそうで退屈な空間。
はたまた、苦しくてもがきたくなるそんな空間にいる時間も。必ず前後左右に、また過去から未来に繋げられている一つの地点。
きっと「湿原」だけではなく他のことからもそんなことを考えることはあるのだろうけれど。

どこまでも続く水と陸地の狭間が織りなす、「均衡」を感じる空間で、自分という存在が、今この瞬間に立っている「均衡点」について感じ、思いを巡らせる。