10.9.21

籠ること、拓くこと*クングスレーデン・ラップランド①

休暇を取るきっかけがなかなか掴めないうちに夏が超えてしまいそうになった。

本当は別に計画していた場所があったけれど、目標としていた場所の手前で、突如として私の目の前に深く広い湖が現れた。それまでは湖の対岸にはきらきらと光が差していて、きっとその場所こそが私の胸の奥にある羅針盤の差す方向だと信じて疑うことなく進んでいた。

だけれど、ある時私はその湖の向こうには到達することはできない、とついに悟った。上空には黒雲が立ち込め、風が吹き始め、もう私は進んでいくことができなかった。そしてきらきらと光るその対岸は、遠のき、霞んでいくように見えた。

 

もう進まないと決めてからも冷たい雨が私の心を幾日も降り注いで、周りの風は私の肌を切て通り過ぎていくようだった。むき出しになってしまった羽を休めたかった。

けれど同時に、新しい進路を見つけたくて、それまで費やしてきた時間が何かしら生産的な時間であったとどうにか理由をつけて自分に納得させたくて、藻掻く日々だった。けれど、藻掻くほどに心も身体はどこかに引きずり込まれていくような感覚があった。

 

人の心は簡単に壊れてしまうものだろうな、ということを初めて感じた日々だった。周りと自分の間にはいつの間にか緞帳が下ろされてしまっていた。それは他の誰にも見えない。精神を周りから切り離していってしまった友人や知り合いは私にも何人かいた。何か力になりたくても、話を聞いても、でも何もが満たされているあなたには分からない、という言葉をよくそんな人たちから会話の最後に浴びた。

私の場合はそれは絞り緞帳くらいだったと思う。それは揺れていたから、開けることができるものだということも感じることができたし、時折その僅かに開いた中央の隙間を通して、まだ私が他の人たちの同じ空気を吸って生きていけるということも理解できた。

その幕の中で生きていけばもう冷たい雨に当たることもないのかもしれないとも思った。とにかく救いを探して、本を読み、音楽を聴き、言葉を書き出し、絵を描き…。

けれど私は、外に行くことで自分の立ち位置を確認する、という生来から染みついた自分の習性に従うという方法も試さずにはいられなかった。

できれば人と生き方を比べる必要のない場所へ。途方もなく広く、本当に物理的に一人となって自分の心と向き合える場所。


目的地に決めたのは夏用に計画していた装備ではややぎりぎりのところではあったけれど、予てから行きたかった場所の北欧。

いくつかの都市には行ったことはあって、そのどこか余裕のある生活スタイルや、自然と調和のとれた都市景観も好きではあったけれど、結局のところ世界中どこにも理想郷のような社会システムを持った人間社会はないというのは、どうしても感じるようになっていたから、それよりも別のベクトルへと自分を世界から切り離せる場所が必要だと思った。

心に浮かんできたのは、私の心の一つの軸となっているスピッツベルゲンの空気。けれど、当時、スピッツベルゲン島やノルウェーでは、まだ強めの防疫対策が取られていて検査や隔離処置なしに休暇内に旅を終えられるかが不透明だった。

そんな経緯があって決めたスウェーディッシュ・ラップランド地方のクングスレーデンのロングトレイルの一部。ロングトレイルの中では整備された道ではあるようだったけれど、ヨーロッパではおろか、日本でも1週間近くの日程を一人でテントを背負って歩いた経験は私には一度もなかった。

 

装備をそろえて、目的地まで約2日間かかる列車に乗り込む。宿代がかからない分、夜行列車では一人部屋を予約した。

途中の列車の中で夜中に検札に来た若めの車掌が私のチケットをやけに長く眺めていたので何か不備でもしたかとやや不安に思っていると、目的地を指さして、「ここは去年家族や子どもたちとと行ってとても良かったよ。この季節は紅葉が素晴らしいと思うので、楽しんできてくださいね。」と。

たった一瞬の言葉であっても、良い旅を、というありきたりの祈りのフレーズに、ただ一言二言だけ自分の経験の何かが付け足されただけで、私の中でシャッターが押されて、その時の列車内の明かりや、毛布の手触り、私のその時の心境と共に、旅の中の特別な記憶として保管される。それは私の心がそれほどに疲弊していたから起こったことなのかは分からないけれど。



その夜、その車掌が去って行って、線路の上でまたがる2つの日の間を揺れながら思ったこと。

自分がどんなにからの中に籠っていようとも、もしくは毎日をやりすごすことができる心の状態であろうとも、こういう瞬間を記憶として留められる心を持っている人でありたい。そして、私自身も誰かにこういう小さな記憶として留めてもらえる人であれたら幸せだな、ということ。

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