31.3.19

春の森への誘い*ヨーロッパのブナの森

中央~西ヨーロッパの極相植生のブナの森の林床は貧相なことが多い。
成長したブナ樹林は林冠をほぼ覆ってしまい、光の届かない林床では他の植物が繁茂することが難しいためである。

そんなブナの森ではあるが、秋の紅葉と春のスプリングエフェメラルと呼ばれる短期に一斉に花を咲かせる植物たちの作る息をのむような空間には魅了させられる。


赤ずきんの女の子が、森で熊と出会った女の子の通った道はこんな様子だったのだろうか、と歴史的な文化遺産を見る以外ではヨーロッパではなかなかない、幻想の世界に迷い込んだ錯覚になるのは特に春の白い絨毯が広がる時期(4~5月頃)である。

木々の合間から差し込む春の陽射しも柔らかく、美しい。

スノードロップ
(Snowdrop, Schmalblättiges Schneeglöckchen, Galanthus angustifolius

春先一番に、時には雪の下から花を覗かせるのは日本でも園芸種として親しまれるスノードロップ(Snowdrop, Schmalblättiges Schneeglöckchen, Galanthus angustifolius)とフクジュソウに少し似たセツブンソウ属の花(Winter aconite, Winterling, Eranthis hyemalis)である。

 セツブンソウ属の花
(Winter aconite, Winterling, Eranthis hyemalis

少し明るいところや庭先ではクロッカスが咲き始めるのもこの2種が咲きだすのと同じ頃(2~3月頃)である。 日本と比較して、中央ヨーロッパの日長が急激に長くなっていくのを感じ、ヤナギ類の芽も少しずつ膨らみ始める。

イチリンソウ属(アネモネ)の仲間
(Woodanemone, Buchwindröschen, Anemone nemorosa)

 冒頭の、白いお花畑を構成するのはイチリンソウ属のアネモネと呼ばれる花の仲間である(Woodanemone, Buchwindröschen, Anemone nemorosa)。日本のニリンソウに似るが葉の形や花弁の大きさの違いから、森の中で見つけたときもより強い印象を受ける。

森の近くに長く住んでいるヨーロッパ人にとっては、これがかれらにとっての『春の森』の当たり前の風景なのであろうが、私は毎年この一面のアネモネの花の林床を見た後は、いつもどこかに魂を飛ばしてしまったような、熱に浮かされるような気分になる。

キケマン属の仲間
(Corydalis, Hohler Lerchensporn, Corydalis cava

この他にも数種よく群生して見られる種としては、キケマン属(Corydalis, Hohler Lerchensporn, Corydalis cava)の仲間がある。
この種は同じ市街の複数のブナの森でも分布している場所が限られているのが興味深い。またブナに限らない林床でも見られる。

ミスミソウ
(Kidneywort, Leberblümchen, Hepatica nobilis
写真中央右上部分にいくつか見えるのがミスミソウの葉。
その他に掌状のAnemone nemorosaの葉なども見える。 
 
この他にも林床の花はいくつか挙げられるが、私が何か宝石を見つけたような気持ちにさせられるのはミスミソウ属のミスミソウ(Kidneywort, Leberblümchen, Hepatica nobilis)である。それぞれの名前の由来は腎臓の形に似た3つに分かれた葉の形から。

この時期に咲く花の多くはキンポウゲ目の植物である。
植物の構造を見ながら同定をしていくと、同じ目の中でもその多様な色や形態の進化に様々に感心させられる。
なお、ここで紹介した種の同定にはRothmalerという植物同定のために定評のある書籍を参考にしている。
https://www.springer.com/de/book/9783662497074


もうひとつこの時期のお楽しみであるのが、日本で言うところの行者ニンニクの近縁種である(Wild garlic, Bärlauch, Allium ursinum)。ラムソンとも呼ばれているらしい。
日本と同様にスズランの仲間やアマドコロの仲間などとの取違いには注意が必要ではあるが、慣れれば匂いや姿から容易に見分けられるようになる。

ドイツではバターとしてグリルをする時に使ったり、ソースやスープにも利用されている、スーパーではなかなか見かけることはできないアミガサダケ(Morchel)と並んでアウトドア好きな人ならではの春のお楽しみの採集物の一つである。

陽の光に誘われてつい森の中へと迷い込みたくなるのがこの季節。
いつまでもこの季節であったのならばと毎年思うのだけれど、もちろんそうはいかない。
花たちは太陽の光を目いっぱいに利用して昆虫を誘い、少しずつ木々が茂っていく頃、ひっそりと実を結ぶ。
多くのスプリングエフェメラルたちは種の運搬を蟻に依存しているため、それほど広範囲へは拡大しない。けれど、少しずつ、ゆっくりと。

数日ごとに通っていると春の森の景観の変化はゆっくりのようで劇的だ。
昨日咲いていた花はしぼみ、隣の蕾だったものが咲く。そんな変化が森の林床を波打ちながら広がり、最後には少しずつに緑の中へと消えていく。

春は流れる時間の早さを感じる季節でもある。
進み戻りつしながらなかなか進んでいないように見えて、過ぎ去る頃はあっという間。
蕾が開く瞬間を、昆虫が訪れるある暖かな昼下がりを、思いがけない寒さに震える瞬間を。
流れていく時の中で少しでも多く集めていきたいと思う。